固定残業代を導入しているクリニックは、決して珍しくありません。しかし数年運用するうちに、「残業をしていないのに、残業手当を払い続けている」という実態に気づき、やめられないものかと考える院長先生も少なくありません。
結論から申し上げると、固定残業代の廃止は可能です。ただし、正しい順序と手続を踏まなければ、過去にさかのぼった未払い賃金の問題や、職員とのトラブルを招きます。そしてもう一つ、あらかじめ知っておいていただきたいことがあります。固定残業代をやめても、人件費は下がりません。この記事では、その理由と具体的な進め方を、法的な枠組みと実際の設計の両面から整理します。
なぜクリニックは固定残業代をやめられないのか
固定残業代を導入しているクリニックは、決して珍しくありません。そして、そのきっかけの多くは、給与計算の負担にあります。
小規模なクリニックには、労務を専任で担当する職員がいないのが普通です。院長先生ご自身か、ご家族、あるいは受付業務を兼務する事務スタッフが、毎月の給与計算を担っている。タイムカードから数分単位の残業時間を拾い、職員ごとに割増率をかけて集計する。この作業を診療の合間にこなすのは、決して軽い負担ではありません。
そこで、「毎月決まった額を残業代として支払う」という形にする。そうすれば、毎月の集計作業から解放されます。導入の動機としては、きわめて現実的な判断です。
数年たつと、別の景色が見えてくる
ところが、この制度を数年運用していると、当初は見えていなかったことに気づきます。
残業がほとんど発生しなかった月にも、同じ額を支払っている。
これは、制度が壊れているわけではありません。固定残業代は、一定時間分の割増賃金をあらかじめ定額で支払う約束ですから、実際の残業がその時間に満たない月であっても、約束した額を支払うことになります。制度としては、そのとおりに動いています。
そのうえ、前の月に超過した分を、翌月の余った分で埋め合わせることもできません。賃金は毎月、全額を支払わなければならないとされているためです。超過した月には別途支払い、足りない月には満額を支払う。差し引きはできない仕組みになっています。
しかし、経営する側の実感は違います。残業をしていないのに、残業手当を払っている。
制度の建前と、現場の感覚。ここに、はっきりとしたずれが生まれます。
やめようとした瞬間に、動けなくなる
では、実態に合っていないのだから、やめればよいのではないか。
多くのクリニックが、ここで止まります。
たとえば、基本給20万円に固定残業代5万円を加えて、「月給25万円」として職員を募集してきたとします。固定残業代をやめれば、求人票に載る月給は20万円になります。
看護師や医療事務の採用が容易でない状況で、募集条件の表示額を5万円下げる。この判断は、簡単にはできません。応募がさらに減れば、現場が回らなくなります。
そして、影響は募集だけにとどまりません。今いる職員の月給も、何もしなければ同じだけ下がることになります。賃下げと受け取られれば、離職につながりかねない。
こうして、「実態に合っていない」と分かっていながら、動けない状態が続きます。導入のきっかけは事務負担の軽減だったはずが、いつの間にか、募集条件と職員の生活を支える柱になっている。これが、固定残業代をやめられない本当の理由です。
この記事で扱うこと
結論から申し上げると、固定残業代の廃止は可能です。
ただし、期待されがちな効果は得られません。固定残業代をやめても、人件費は下がりません。むしろ、数年かけて賃金体系を組み直す取り組みだと考えたほうが実態に近い。コスト削減を目的に着手すると、途中で必ず行き詰まります。
この記事では、その手順を、法的な枠組みと実際の設計の両面から整理していきます。
その固定残業代は、そもそも有効か
固定残業代をやめる話に入る前に、確認しておくべきことがあります。
いま運用している固定残業代が、法的に有効かどうかです。
もし無効と判断される状態であれば、やめ方を考える以前に、過去にさかのぼった未払い賃金の問題が生じています。順序として、ここが先です。
有効と認められるための2つの要件
裁判所は、固定残業代が割増賃金の支払として認められるために、2つのことを求めています。
1つは、判別できることです。給与のうち、どこまでが通常の労働時間に対する賃金で、どこからが割増賃金なのか。この区別が客観的につかなければ、割増賃金を支払ったとは認められません。
もう1つは、時間外労働の対価として支払われていることです。手当の名称ではなく、雇用契約書や規程の記載、職員への説明の内容、実際の勤務状況などから判断されます。
この2つは、最高裁が繰り返し確認してきた要件です。医療機関が当事者となった事案もあります。年俸1,700万円で雇用されていた勤務医について、年俸に割増賃金を含むという合意があっても、その内訳を判別できない以上、割増賃金が支払われたとはいえないとされた事例です。
注目すべきは、賃金の高さが理由にならなかったことです。「これだけ払っているのだから残業代も含まれているはずだ」という理屈は通りませんでした。この判断は、月給25万円のクリニックでもまったく同じように働きます。
この判決を受けて、厚生労働省も通達を出しています。名称にかかわらず定額で残業代を支払う場合は判別できることが必要であり、実際の労働時間から計算した割増賃金が定額部分を上回るときは差額を支払う義務がある、という内容です。
よく目にする、危うい2つの書き方
医療機関に限った話ではありませんが、クリニックでも次の2つは頻繁に見かけます。
1つ目は、「基本給に残業代を含む」とだけ書かれているケースです。
何時間分なのか、いくら分なのかが書かれていない。これでは、通常の賃金部分と割増賃金部分を区別できません。判別できない以上、要件を満たさないと判断される可能性が高い書き方です。
2つ目は、職務手当や資格手当を、残業代のつもりで支給しているケースです。
たとえば看護師に資格手当を支給していて、院長先生としては「この中に残業代も含めているつもり」である。しかし雇用契約書には資格に対する手当としか書かれておらず、職員にもそう説明してきた。この場合、その手当が時間外労働の対価であるとは認められにくくなります。資格手当は本来、資格を持っていることへの対価だからです。
ただし、手当の形をとること自体が問題なのではありません。薬局の「業務手当」について、雇用契約書や採用条件を示す書面に時間外労働への対価である旨が記載されていたことなどから、割増賃金の支払と認められた最高裁の事例もあります。要件を満たす形で定めていれば、手当型でも有効です。
無効と判断されると、何が起きるか
固定残業代が無効と判断された場合、その額は「割増賃金ではなく、通常の賃金の一部」として扱われます。ここで二重の不利益が生じます。
基本給20万円、固定残業代5万円、月平均所定労働時間160時間のクリニックで、ある月に30時間の残業があったとします(時間外の割増率1.25倍で計算した場合)。
| 有効な場合 | 無効と判断された場合 | |
|---|---|---|
| 割増賃金の基礎となる賃金 | 20万円 | 25万円 |
| 1時間あたりの割増賃金 | 1,562円 | 1,953円 |
| 30時間分の割増賃金 | 46,875円 | 58,593円 |
| 支払済みの5万円の扱い | 充当できる | 充当できない |
| 追加で支払う額 | 0円 | 58,593円 |
支払っていた5万円が基礎賃金に加わることで単価が上がり、しかもその5万円は割増賃金を支払ったことにならない。結果として、1か月あたり約5万9千円を別途支払うことになります。
そして、賃金請求権の時効は、当分の間3年とされています。退職した職員から請求されれば、この計算が過去数年分にさかのぼります。
多くは、書き方の問題
ここまで見てきたとおり、無効と判断される原因の多くは、運用の悪質さではなく、規程や雇用契約書の書き方にあります。開業時に作った雛形のまま、一度も見直していない。そういうケースが少なくありません。就業規則そのものの整備については、次の記事で扱っています。

次の章では、確認した結果を踏まえて、やめるべきケースと続けてよいケースを整理します。
やめるべきケースと、続けてよいケース
前章で、自院の固定残業代が要件を満たしているかを確認しました。ここからは、やめるべきかどうかの判断に移ります。
ただし、その前に順序の問題があります。
無効の疑いがあるなら、まず過去を確認する
前章の確認で「これは要件を満たしていないかもしれない」となった場合、次に手をつけるべきは、廃止でも規程の修正でもありません。
まず、過去分のリスクを把握することです。
理由は単純です。制度を廃止しても、過去に発生した未払い分は消えないからです。規程を有効な形に書き直しても同じで、書き直しの効果は先に向かってしか働きません。過ぎた分の債務が残ったまま、制度だけが新しくなるだけです。
具体的には、賃金台帳と出勤簿を突き合わせ、固定残業代が無効だったと仮定した場合に、どれだけの差額が生じるのかを試算します。対象は在職している職員だけではありません。賃金請求権の時効は当分の間3年とされているため、直近3年以内に退職した職員も含めて見ておく必要があります。
金額の規模が見えて、はじめて判断ができます。数万円で収まるのか、数百万円の話なのか。それによって、廃止に踏み切るのか、まず有効な形に整えるのか、あるいは退職者への対応を先に考えるのか、優先順位が変わってきます。
順序を逆にすると、制度を作り直した後になって想定外の請求を受けることになります。
やめる検討に入るべき5つのサイン
そのうえで、次のような状態にあるクリニックは、廃止の検討に入る価値があります。
サイン1:設定時間と実態が合っていない
設定が月30時間なのに、実際の残業は数時間しかない。第1章で見た「払い損」の状態です。反対に、設定を大きく超える残業が常態化している場合も、実態と合っていません。
サイン2:設定時間を超えた分を精算していない
これは前章のとおり、そのまま未払い賃金になります。また、実際の残業が恒常的に月45時間を超えているのであれば、時間外労働の上限規制との関係も確認が必要です。
サイン3:固定残業代を除いた基本給の時給換算が、最低賃金に近い
固定残業代は、最低賃金と比較する賃金には含まれません。月給が地域の最低賃金を十分に上回っているように見えても、固定残業代を除いて時給に直すと、ぎりぎり、あるいは下回っていることがあります。地域別最低賃金は毎年10月に改定され、地域によって額も異なるため、改定のたびに確認が必要な項目です。
サイン4:求人票の記載が、明示義務を満たしていない
固定残業代を採用している場合、募集にあたって示すべき事項が定められています。「固定残業代含む」とだけ書いている状態は、これを満たしていません。
サイン5:賃上げや助成金の活用を考えている
賃金体系に固定残業代が組み込まれていると、賃上げの設計が複雑になります。この点は第6章で詳しく扱います。
続けてよいケースもあります
一方で、すべてのクリニックが固定残業代をやめるべきだ、とは考えていません。
要件を満たす形で規程に定められていて、設定時間と実際の残業がおおむね一致しており、超過した分はきちんと精算していて、求人票の記載も適正である。この状態であれば、やめる理由はありません。
残業が恒常的に発生する職場では、当初の目的である事務負担の軽減が、実際に果たされています。問題は制度そのものではなく、実態と合っていない運用にあります。
やめるべきかどうかを分けるのは、制度の是非ではなく、自院の実態との距離です。
次章では、やめると決めた場合に、そもそも法的にやめられるのかを整理します。
廃止は不利益変更にあたるのか
固定残業代をやめると決めたとして、次に出てくるのが「そもそも、こちらの判断だけでやめられるのか」という問題です。
結論から申し上げると、院長先生の一存では、やめられません。
労働条件は、勝手には変えられない
労働条件の変更については、労働契約法に基本的なルールが定められています。
原則は、労働者と使用者の合意によって変更することです。そして、就業規則を変更することで、労働者の合意なく労働条件を不利益に変更することは、原則として認められていません。
例外はあります。変更後の就業規則を職員に周知し、かつその変更に合理性があると認められる場合には、就業規則の変更によって労働条件を変更できるとされています。合理性は、職員が受ける不利益の程度、変更の必要性、変更後の内容の相当性、代償措置の有無、職員との交渉の経緯といった事情を総合して判断されます。
つまり、道は2つあります。一人ひとりの同意を得る道と、就業規則の変更に合理性を持たせる道です。そして小規模なクリニックでは、この2つを併用するのが現実的です。
なお、固定残業代を一方的に減額した事案では、それが権限の濫用にあたり無効だと判断された裁判例もあります。「経営判断だから」という理由だけで押し通すことはできない、と考えておくべきです。
調整給を設ければ、不利益変更でなくなるのか
次章で扱いますが、廃止にあたっては、差額を調整給として支給し、時間をかけて解消していく方法があります。
では、この方法をとって当面の賃金総額が変わらなければ、不利益変更の問題は生じないのでしょうか。
この点は、不利益変更にあたる前提で手続を進めるべきです。
調整給は、いずれ減っていくことを予定した手当です。当面は総額が維持されるとしても、その先を見れば従前の水準を下回る局面が来ます。「総額が変わらないから問題ない」という整理で手続を省略すると、後になって争いの余地を残します。
調整給を設けることに意味がないわけではありません。むしろ逆で、不利益の程度を和らげ、変更の合理性を支える代償措置として機能します。ただしそれは、手続を省いてよい理由にはならない、ということです。
同意書に署名をもらえば足りる、わけではない
小規模なクリニックでは、職員一人ひとりに説明して同意書に署名をもらう方法が現実的です。ただし、ここに落とし穴があります。
賃金に関する不利益な変更について、最高裁は、労働者が署名押印したという事実だけでは同意があったとは認められないという判断枠組みを示しています。その同意が、労働者の自由な意思に基づくものと認めるに足りる合理的な理由が、客観的に存在するかどうかで判断されます。
判断にあたっては、変更によって労働者が受ける不利益の内容と程度、そして使用者からどのような情報提供や説明がなされたかが考慮されます。
裏を返せば、必要なのは書類ではなくプロセスだということです。何がどう変わり、自分の給与がどうなるのかを、具体的な数字で示す。質問に答える。考える時間を渡す。その積み重ねがあって、はじめて同意が同意として機能します。用紙を配って「ここにサインを」では、後で覆される可能性があります。
就業規則の手続も忘れずに
同意を得るのと並行して、就業規則(賃金規程)の変更手続も必要です。賃金に関する事項は、就業規則に必ず記載しなければならない事項だからです。
手順は、変更案の作成、事業場の過半数を代表する者からの意見聴取、意見書を添えて労働基準監督署へ届出、そして職員への周知となります。
このうち、周知は形式的な手続ではありません。変更後の就業規則を職場に備え付ける、掲示する、データで共有するなどして職員が知り得る状態にしなければ、効力が生じないとされています。院長室の引き出しに新しい規程をしまっただけでは、労働条件は変わっていません。
法的な枠組みは以上です。次章では、実際にどう設計し、どう進めるかに入ります。
進め方:調整給と経過措置の設計
ここからが、この記事の中心です。
固定残業代をやめると決めた。手続の枠組みも分かった。では、実際にどう進めるのか。ここでつまずくクリニックがほとんどです。
ゼロにする廃止は、現実には選べない
まず、やってはいけない進め方から確認します。
固定残業代5万円を、来月から単に支給しない。これが最もしてはいけない方法です。職員の月給はそのまま5万円下がり、生活に直結します。離職につながる可能性が高く、第1章で見たとおり、募集条件の見劣りという問題も残ったままです。
つまり、多くのクリニックにとって、賃金水準そのものを下げる選択肢はありません。やめたいのは「残業していないのに残業手当を払っている」という状態であって、職員の生活水準を切り下げたいわけではないはずです。
そうすると、進め方は自ずと決まってきます。固定残業代を廃止したうえで、当面はその差額を別の形で埋め、時間をかけて賃金体系を組み替えていく。これが現実的な設計です。
差額をどう埋めるか——基本給か、調整給か
差額を埋める方法は、大きく2つあります。廃止した固定残業代の分を、基本給に組み入れるか、調整給として支給するか。
一見どちらでも同じに見えますが、後々の展開が大きく変わります。
| 基本給に組み入れる | 調整給として支給する | |
|---|---|---|
| 割増賃金の単価 | 上がる | 上がる |
| 賞与・退職金への影響 | 通常は算定基礎に含まれ、原資が膨らむ | 規程で算定基礎から除くことができる |
| 将来の見直し | 基本給の引下げとなり、極めて困難 | 逓減を予定した設計にできる |
割増賃金の単価は、どちらの方法でも上がります。この点は誤解が多いところです。固定残業代は割増賃金なので、割増計算の基礎から除かれていました。ところが基本給に入れても調整給にしても、それは通常の労働時間に対する賃金として、割増計算の基礎に含まれます。「基本給に入れると単価が上がるが、調整給なら上がらない」ということはありません。単価が上がる点は同じです。
差が出るのは、その先です。
基本給に組み入れると、賞与や退職金を基本給に連動させている場合、その原資が恒久的に膨らみます。そして何より、一度基本給に入れた額を後で減らすのは、基本給そのものの引下げとなり、極めてハードルが高くなります。組み入れた瞬間に、身動きが取れなくなるのです。
一方、調整給は、あらかじめ「賃金体系の移行に伴う経過的な手当」として位置づけ、段階的に減らしていくことを予定した設計ができます。賞与・退職金の算定基礎からも、規程の定め方で外せます。
これらの理由から、実務では、調整給として支給する方法をとることが多くなります。当事務所がサポートした事例でも、調整給を用いる形をとっています。
経過措置の期間は、逆算で決める
調整給を設けたら、次はそれをどのくらいの期間で解消していくかです。
ここで、多くの解説は「経過措置を設けることが望ましい」で止まっています。しかし、何年が妥当なのかについて、確立した基準はありません。裁判例が「何年なら合理的」と一律の線を引いているわけでもありません。
では、どう決めるのか。答えは、法律ではなく、自院の賃金の動きから逆算します。
考え方はこうです。調整給を減らしていく一方で、毎年の定期昇給によって基本給は上がっていきます。この定期昇給の原資を、調整給の解消に充てる。毎年の昇給で調整給を吸収していければ、その分だけ職員の不利益は生じません。
したがって、期間を決めるのは次の問いです。
自院の定期昇給の原資で、この調整給を吸収し切るのに、何年かかるか。
昇給額が大きい職場なら、短い期間で解消できます。昇給額が小さければ、期間は長くなります。調整給の額が大きければ、やはり期間は延びます。つまり、適切な年数は各クリニックで異なり、他院の年数を借りてくることに意味はありません。自院の数字で逆算した結果だけが、自院にとっての正解です。
「+α」で、手取りが増える設計にする
ここで、実務上の重要なコツがあります。
定期昇給の全額を調整給の解消に充てると、職員から見れば「昇給したのに手取りが変わらない」状態になります。これでは、昇給した実感が得られません。納得も得にくくなります。
そこで、定期昇給の一部を調整給の解消に充て、残りは純粋な昇給として手取りに反映させます。こうすれば、調整給は少しずつ減っていく一方で、職員の毎年の手取りはきちんと増えていきます。
賃金体系は着実に組み替わっていくのに、職員は毎年昇給を実感できる。この設計にできるかどうかが、移行がうまくいくかどうかの分かれ目になります。
ただし、昇給の充当には同意を取っておく
もっとも、ここで一点、慎重になるべき部分があります。
定期昇給によって上がるはずの分を、調整給の減額に充てるという設計です。就業規則に定期昇給の定めがある場合、本来上がるはずだった昇給を調整給の解消に回すことが、後になって「約束された昇給を実質的に削ったのではないか」と受け取られる余地があります。
第4章で述べたとおり、賃金に関わる不利益な取扱いについては、職員の自由な意思に基づく同意といえるかどうかが問われます。この昇給の充当という仕組みについても、あらかじめ職員に説明し、同意を得ておくべきです。
具体的には、固定残業代の廃止に伴って調整給を設けること、その調整給を毎年の昇給の一部を用いて解消していくこと、それでも毎年の手取りは増えていくこと。これらを、自分の給与に当てはめた数字で示し、質問に答え、そのうえで同意を得る。第4章で述べた「書類ではなくプロセス」を、この設計に即して丁寧に踏むことになります。
手間はかかります。しかし、この手間を惜しんで後から争いになるほうが、はるかに大きな損失です。
次章では、この移行の期間中に、実際に何が起きるのかを見ていきます。
移行期間中に起きること
調整給を設けて移行を始めると、いくつか、あらかじめ知っておくべき変化が起きます。想定していないと戸惑う部分なので、先に押さえておきます。
残業代の単価が上がる
まず、時間外労働に対して支払う残業代の単価が上がります。
前章で触れたとおり、調整給は割増賃金の計算の基礎に含まれます。固定残業代だったときは、その5万円は割増計算の基礎から外れていました。ところが調整給に振り替えると、その分が基礎に加わり、1時間あたりの残業単価が上がります。
つまり、移行後は、実際に残業が発生した際に支払う割増賃金が、以前より高くなります。これは制度上、避けられません。移行にあたっては、この単価の上昇を織り込んでおく必要があります。
もっとも、これは「損」というより、本来あるべき姿に戻るということでもあります。固定残業代で割増計算の基礎を低く抑えていた状態が、正常化されるわけです。賃金体系が透明になる、というのは、こうした部分も含めての話です。
時給換算が上がる
もう一つ、時給に直したときの水準が上がります。
固定残業代は、最低賃金と比較する際の賃金には含まれません。残業に対する手当だからです。一方、調整給は通常の労働時間に対する賃金として、最低賃金との比較に含まれます。
そのため、固定残業代を調整給に振り替えると、同じ月給額であっても、時給に換算した水準は上がります。これまで固定残業代で月給を膨らませていたクリニックほど、この効果は大きく出ます。
これは、地域別最低賃金との関係で意味を持ちます。最低賃金は毎年10月に改定され、近年は上昇が続いています。固定残業代のままだと、月給は十分に見えても時給換算では最低賃金に接近していることがあり、改定のたびにひやりとする——第3章で触れたとおりです。調整給への振替は、この心配を小さくする方向に働きます。
求人票を書き換える
最後に、忘れやすいのが募集要項です。
固定残業代を前提に「月給25万円(固定残業代5万円を含む)」と記載してきたのであれば、制度を変えた後は、その記載も実態に合わせて改めなければなりません。固定残業代がなくなったのに、求人票だけが古いままになっている、という状態は避ける必要があります。
固定残業代を採用する場合には、その額や時間数などを明示することが求められています。裏を返せば、固定残業代をやめたのであれば、その記載を残しておく理由はありません。移行のタイミングで、募集に使う書式も一緒に見直しておきます。
移行期間中に起きることは、以上です。次章では、ここまでで触れきれなかった疑問に、一問一答の形でお答えします。
よくある質問
Q. 廃止に同意しない職員がいたら、どうすればよいですか。
一方的に押し切ることは避けてください。第4章で述べたとおり、賃金の不利益な変更には、職員の自由な意思に基づく同意といえるかどうかが問われます。同意しない職員がいる場合は、まず説明が足りているかを見直します。何がどう変わり、自分の給与がどうなるのかを、数字で具体的に示せているか。調整給によって当面の手取りが下がらないことが伝わっているか。多くの反対は、不利益変更そのものへの反対ではなく、説明不足による不安から生じます。それでも同意が得られない場合は、就業規則の変更に合理性を持たせる道もありますが、その判断は慎重を要するため、専門家に相談することをお勧めします。
Q. 調整給は、いつまで支給するのですか。
期限をあらかじめ何年と決めるのではなく、定期昇給によって吸収し切るまで、と考えるのが実務的です。何年で解消できるかは、自院の定期昇給の額と、調整給の額によって決まります。昇給の一部を調整給の解消に充てていくため、昇給額が大きいほど、また調整給が小さいほど、早く解消できます。他院の年数を借りてくるのではなく、自院の数字で見込みを立ててください。
Q. 固定残業代をやめたら、残業代の支払いは増えますか。
残業が多い月には、支払う残業代は増えます。固定残業代は、残業の有無にかかわらず定額を支払う仕組みでしたが、廃止後は実際の残業時間に応じて支払う形になるためです。ただしこれは、これまで支払うべきだった分を、正しく支払うようになったということです。反対に、残業がほとんどない月の支払いは軽くなります。総額として増えるか減るかは、その職場で実際にどれだけ残業が発生しているかによります。
Q. 就業規則がないのですが、どう進めればよいですか。
職員が常時10人未満のクリニックには、就業規則の作成義務はありません。その場合でも、賃金の定めは雇用契約書や賃金規程などに置かれているはずですから、その変更によって対応します。手順としては同じく、職員への説明と同意が必要です。なお、固定残業代の書き方が曖昧だったのであれば、この機会に賃金の定めを整えておくことをお勧めします。就業規則そのものの必要性については、クリニックに就業規則は必要か?10人未満でも整備すべき理由で扱っています。
まとめ
固定残業代の廃止について、順を追って見てきました。最後に、要点を整理します。
固定残業代をやめる前に、まず今の制度が有効かを確認します。判別可能性と対価性という要件を満たしていない場合、廃止を考える前に、過去にさかのぼった未払い分のリスクを把握することが先です。
廃止は、院長先生の一存では進められません。賃金の不利益な変更には、職員の自由な意思に基づく同意が必要であり、就業規則(賃金規程)の変更手続も欠かせません。同意は、書類ではなくプロセスによって成り立ちます。
そして、この記事を通じて最もお伝えしたかったのは、次のことです。固定残業代の廃止は、人件費を下げる施策ではありません。職員の生活と募集条件を守るために賃金水準は維持せざるを得ず、廃止した分は調整給として支給し、定期昇給の原資で時間をかけて吸収していくことになります。これは、コスト削減ではなく、賃金体系を透明にするための取り組みです。目先の経費削減を期待して着手すると、途中で行き詰まります。
経過措置に何年かけるべきかに、確立した基準はありません。自院の定期昇給の原資で調整給を吸収し切るのに何年かかるか、そこから逆算して決めます。他院の年数は参考になりません。
なお、この記事で触れた制度や金額は、変わることを前提にしてください。地域別最低賃金は毎年10月に、その他の制度も随時見直されます。判断の際には、厚生労働省や都道府県労働局などの公式情報で最新の内容を確認してください。そして、自院の状況に即した進め方に迷ったときは、労働局の相談窓口や顧問社会保険労務士など、実際の資料を見て判断できる専門家に相談することをお勧めします。
