病院・クリニックの患者ハラスメント。放置は安全配慮義務違反という経営リスク

病院やクリニックの待合室で、診察室で、あるいは電話越しに、患者やそのご家族から、職員が暴言を浴びせられる。理不尽な要求を突きつけられる。ときには暴力やセクシュアルハラスメントの被害に遭う。

こうした行為は「患者ハラスメント」(ペイシェントハラスメント、略してペイハラとも呼ばれます)といい、いま医療現場で深刻な問題になっています。

医療は「患者ファースト」を大切にする仕事です。

それゆえに、「病気でつらいのだから」「相手は患者さんだから」と、職員に我慢を強いてきた現場も少なくないはずです。しかし、本当にそれでよいのでしょうか?

結論から申し上げます。

患者ハラスメントを放置し、職員に我慢させ続けることは、医療機関にとって「安全配慮義務違反」という経営リスクに直結します。事業主には、職員が安全に働けるよう配慮する法的な義務があるからです。

本記事では、この「安全配慮義務」を軸に、医療現場の患者ハラスメントの実態、何がハラスメントに当たるのかの見極め、そして組織として職員を守る方法を、社会保険労務士の視点で整理します。

なお、患者の診療を断れるかといった応召義務に関わる法的判断は、弁護士・医事法の領域となるため、本記事では扱いません。

介護事業向けではありますが、就業規則の整備は事業によって変わることはありませんので、参考にしてください。

目次

医療現場の患者ハラスメントの実態

患者ハラスメントは、ごく一部の現場で起きる特殊な出来事ではありません。まず、これがどれほど身近に起きているのかを押さえておきましょう。

看護職の約半数が被害を受けている

日本看護協会の調査では、過去1年間に暴力・暴言・ハラスメントを受けた看護職員が、およそ半数にのぼると報告されています。加害者の内訳を見ると、患者本人が約7割、家族が約2割を占めます。患者と接する時間が長く、人数も多い看護職が、被害の中心になっているのです。

つまり、「うちの職員は大丈夫」なのではなく、「声が上がっていないだけ」かもしれない。まずはその前提で考える必要があります。

どんな行為があるのか——4つの類型

患者ハラスメントは、大きく4つの類型に整理できます。

ひとつめは身体的暴力です。処置や介助の最中に、殴る・蹴る・つかむ・引っかくといった行為に及ぶケースです。

ふたつめは精神的暴力。「死ね」「お前では話にならない」といった人格を否定する暴言や、長時間にわたるクレーム、診察後も居座って同じ要求を繰り返す行為などです。

みっつめはセクシュアルハラスメント。職員の身体に触れる、性的な発言をする、特定の職員を指名して執拗に誘う、といった被害が報告されています。

よっつめは過剰・不当な要求です。診療時間外の対応を強要する、医学的根拠のない薬や検査を求める、さらには土下座を迫ったり「SNSに晒す」とちらつかせて謝罪を強要したりするケースもあります。

「患者ファースト」が我慢を常態化させる

注意したいのは、これらの被害が表に出にくいことです。医療は患者本位を重んじる仕事であるがゆえに、職員自身が「このくらいは我慢しなければ」と抱え込んでしまいがちです。とりわけ、患者本人だけでなく家族からの言動に疲弊する例も多く見られます。

こうして我慢が常態化すると、被害は見えないまま、職員の心身をむしばみ、やがて離職へとつながっていきます。次章では、この「我慢させること」が、なぜ事業主自身の問題になるのかを見ていきます。

我慢させることは「安全配慮義務違反」になる

「患者だから我慢」。この対応は、実は事業主自身の首を絞めます。なぜなら、職員に我慢を強い続けることは、医療機関にとって法的なリスクに直結するからです。

事業主は職員への「安全配慮義務」を負う

労働契約法第5条は、事業主に対し、職員がその生命や身体の安全を確保しながら働けるよう配慮する「安全配慮義務」を定めています。これは医療機関も例外ではなく、患者やその家族からのハラスメントに対しても及びます。

つまり、患者ハラスメントから職員を守ることは、「やさしさ」ではなく、事業主に課された法的な義務なのです。

守らなければ、病院が賠償を払う側になる

これを示す裁判例があります。医療法人社団こうかん会事件(東京地裁 平成25年2月19日判決)です。夜勤中の看護師が、せん妄状態の入院患者から暴行を受けて負傷し、障害が残りました。裁判所は、病院が応援体制などの必要な対策を尽くしていなかったとして、病院の安全配慮義務違反を認め、約2,000万円の損害賠償を命じました。

注目すべきは、相手が「症状由来の患者」であっても、病院の責任が認められたことです(症状に起因する言動の扱いは次章で詳しく述べます)。職員を守らないことは、病院自身が多額の賠償を払う側に回るという、直接の経営リスクなのです。

事後に加害者を訴えても、取り戻せるとは限らない

「では、加害者である患者や家族を訴えればよいのでは」と考えるかもしれません。しかし、それも簡単ではありません。

長崎地裁令和6年1月9日判決の事案では、入院患者の家族による高圧的な言動で複数の看護師が退職し、病床の一部閉鎖を余儀なくされたとして、病院が家族に損害賠償を求めました。ところが裁判所は、ハラスメントの事実は一部認めつつも、その言動と病院の損害(看護師の退職など)との因果関係は認められないとして、請求を棄却。最終的に最高裁まで争われ、病院の敗訴が確定しました。

この事案が教えているのは、被害が深刻化し、職員が次々と辞めてから加害者を訴えても、損害を取り戻すのは難しいということです。「訴えれば取り返せる」という発想は、あてにできません。

だから、事前・最中に職員を守るしかない

2つの裁判例が指し示すのは、同じ結論です。

事後の法的措置に頼るのではなく、被害が深刻になる前に職員を守ること。すなわち安全配慮義務を果たすことが、結局のところ、いちばん事業所自身を守ります。「患者ファーストだから我慢」という姿勢は、職員も、そして事業所自身も守ってはくれないのです。

疾患に起因する言動の切り分け——でも安全配慮は別

クリニックの外来でも、判断に迷う場面があります。患者の暴言や興奮が、本人の悪意ではなく、病気の症状から来ている場合です。

症状による言動は「医療・看護の課題」

外来には、認知症の高齢患者や、精神的に不安定な患者も来院します。強い不安や痛み、薬剤の影響などから、暴言や激しい興奮といった言動が現れることがあります。これらは、本人が困らせようとしているのではなく、症状として生じているものです。

こうした症状由来の言動は、悪意のある迷惑行為としての「ハラスメント」とは性質が異なります。毅然と排除するという対応ではなく、落ち着いて声をかけ、環境を整え、必要なら専門の医療につなぐといった、医療・看護の課題として向き合うべきものです。

ただし「症状だから我慢」では済まない

ここに落とし穴があります。「症状なのだから、職員が我慢するしかない」という結論にしてはいけません。

原因が症状であっても、職員が暴力で負傷したり、心身をすり減らしたりしてよいわけではないからです。第2章で紹介したこうかん会事件では、相手がせん妄状態の患者であっても、病院の安全配慮義務違反が認められました。これは病院の事例ですが、その原則は無床のクリニックにも同じく及びます。外来であっても、興奮した患者から職員を守る義務は変わりません。

症状への医療的な対応と、職員を守る安全配慮。この二つは、二段構えで両立させなければなりません。

クリニックでどう向き合うか

無床のクリニックでも、現実的にできることがあります。リスクのある患者には職員を一人で対応させず、別のスタッフが同席するか近くで待機する。診察室の配置や、いざというときの退避の動線を考えておく。危険を感じたら、ためらわず応援を呼び、必要なら通報する。そして、起きたことを記録する。

入院や夜勤のような場面は少なくても、外来の一場面で事態が深刻化することはあります。職員個人に我慢させず、クリニック全体のルールとして備えておくことが大切です。

どこからがペイハラか——労務上の見極め

クリニックの現場でも、「これはペイハラなのか、それとも正当な苦情なのか」という線引きに迷う場面は少なくありません。判断の物差しを持っておきましょう。

2軸で考える——「内容」と「手段」

見極めの基本は、2つの軸で考えることです。

ひとつめは、その要求や苦情の「内容」が妥当か。

ふたつめは、それを伝える「手段・態様」が社会通念上相当か、という軸です。

ポイントは、たとえ内容が妥当でも、伝える手段が、暴力的・威圧的・差別的・性的であったり、執拗に繰り返されたり、長時間にわたって職員を拘束したりすれば、その時点でペイハラに当たるということです。長時間のクレームや居座り、人格を否定する暴言は、手段の相当性を欠きます。暴力に至っては、内容が何であれ、明らかにペイハラです。

医療過誤の有無も考慮する

医療現場ならではの視点として、実際に診療やミスに問題があったかどうかも、判断材料になります。診療側に落ち度があれば、患者側の強い苦情も、正当な範囲に入り得ます。逆に、医療上の問題がないのに理不尽な要求を繰り返すのであれば、ペイハラ側に寄っていきます。

正当な苦情とペイハラを切り分ける

たとえば、待ち時間が長かったことに、受付で冷静に、多少強い口調であっても、苦情を述べるのは、正当な範囲です。一方、待ち時間に腹を立てて受付で怒鳴り続け、居座って業務を止める、職員の容姿や人格を罵倒する、といった行為は、手段が逸脱しており、ペイハラと言えます。診断書を不当な内容で書かせようと脅すのも同様です。

個人で判断せず、記録して組織で

最後に大切なのは、その場の感覚で「ペイハラだ」「我慢すべきだ」と一人で決めないことです。事実を記録し(いつ・どこで・誰が・何を・どのように)、院長やスタッフで判断する。クリニックとして「どこからをペイハラとみなすか」の基準を共有しておくことが、対応のばらつきと、職員の抱え込みを防ぎます。

組織で職員を守る——クリニックでできる対策

見極めができたら、次は職員を守る仕組みづくりです。「小さなクリニックだから」とあきらめる必要はありません。無床のクリニックでも、できることは確かにあります。

まず「方針」を院長が示す

出発点は、院長が方針をはっきり示すことです。「当院は、患者さんやご家族からのハラスメントに対しても、毅然と対応し、職員を守る」。この姿勢を明文化し、職員に伝えます。

あわせて、待合室への掲示などで、患者側にも事前に伝えておくと効果的です。「気持ちよく診療を続けるためのお願い」として、角を立てずに、しかし明確に示す。この事前の周知が、トラブルそのものの予防になります。

職員を一人にしない・記録を残す

次に、職員を一人で対応させないことです。リスクを感じる相手には、別のスタッフが同席するか、近くで待機する。万一に備えて、退避できる動線も考えておきます。

そして、やり取りを記録すること。必要に応じて録音も有効です。この記録は、後の対応の土台になるだけでなく、第2章で触れたとおり、事業主が安全配慮義務を果たしたことを示す証跡にもなります。

つなぐ先を決めておく——警察・専門家

クリニックだけで抱え込まないことも重要です。暴力や脅迫など、犯罪に当たり得る行為には、ためらわず警察に通報する。そして、患者の診療を断れるかといった個別の法的な対応は、顧問弁護士など専門家に相談する。ここは医事法・弁護士の領域なので、無理に自院で判断せず、つなぐ先をあらかじめ決めておくことが大切です。

小規模でもできる最低限

専任の相談窓口を置けなくても、最低限の備えはできます。困ったときに院長やスタッフへ相談できる流れを決めておく。待合室への掲示。記録のルール。そして、危険を感じたときの退避と通報の取り決め。完璧を目指すより、まずこの最低限から始めることです。

体制づくりと義務化への備え

なお、2026年10月からは、カスハラ対策が医療機関を含むすべての事業主に義務化され、無床のクリニックも対象になります。就業規則やカスハラ対応規程の整備、相談体制づくりが求められます。その具体的な進め方は別の記事で詳しく扱っていますので、あわせてご覧ください。

まとめ——「患者ファースト」と「職員を守る」は両立する

患者ハラスメントへの向き合い方を、社会保険労務士の視点で見てきました。最後に、要点を3つに整理します。

この記事の3つのポイント

ひとつめ。患者ハラスメントは、医療現場で深刻に起きています。そして「患者さんだから」と職員に我慢させ続けることは、無床のクリニックであっても、事業主の安全配慮義務違反という経営リスクに直結します。

ふたつめ。何がペイハラかは、「要求の内容」と「伝える手段・態様」の2軸で見極めます。認知症など症状に起因する言動は、医療・看護の課題として対応しつつ、それでも職員の安全に配慮する義務は変わらない。この二段構えが基本です。

みっつめ。職員を守るには、院長が方針を示し、職員を一人で対応させず、記録を残し、犯罪に当たる行為や法的な対応は警察・専門家につなぐ。小さなクリニックでも、最低限の備えから始められます。

守ることは、クリニックを守ること

「患者ファースト」と「職員を守ること」は、対立しません。むしろ、職員が安心して働ける環境を整えることが、結局は良い医療につながり、クリニックそのものを守ります。我慢させることは、職員も、クリニック自身も守ってはくれないのです。

当事務所のサポートについて

当事務所は、医業・社会福祉に特化した社会保険労務士事務所として、ハラスメント対応の方針づくり、就業規則やカスハラ対応規程の整備、相談体制づくりなど、労務面のお手伝いができます。2026年10月の義務化への備えも含め、「何から手をつければよいか」という段階からご相談いただけます。

↓介護事業所のカスハラ対策ではありますが、就業規則などの整備は変わりませんので参考にしてください。

医療・介護・福祉の労務、お気軽にご相談ください

顧問先の約8割が医療機関・介護福祉事業所。この記事のようなお悩みに、顧問契約(月額22,000円〜・税込)や単発相談(16,500円/1時間・税込)でお応えしています。

フォームで相談してみる
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

兵庫県川西市の川西隆之社労士事務所
クラウドツールを活用した労務のデジタル化を得意としています

税理士事務所勤務平成22年3月~平成31年1月
社労士業補助平成22年3月~平成28年8月
社労士登録平成28年9月~
1984年3月9日生まれ。
兵庫(但馬)産まれ兵庫(但馬)育ち。川西市在住。
一人の妻と3人の子どもたち。

2005年社労士試験合格
2016年開業登録(岐阜県)
→2020年より兵庫県川西市にて開業

以下の事項に力を入れています。
・クラウド勤怠管理・給与計算を利用した勤怠管理・給与計算の効率化
→給与計算に必要な時間の圧倒的な削減

・クラウド労務管理を導入することで、法定帳簿の管理・社会保険手続きの効率化
→代行することなく自社での管理・申請が容易に可能

・適切な労務管理を行うことによる、労使トラブルの防止
→疑問点があれば、その都度の相談可能

目次