「カスタマーハラスメント対策が義務になる」と聞いても、どこか接客業や小売業の話に聞こえるかもしれません。あるいは、「法律が変わるのは大企業の話で、うちのような小さな事業所にはまだ猶予があるはず」と考えている方もいるのではないでしょうか。
2026年10月1日から、カスタマーハラスメント(以下、カスハラ)対策は、職員を1人でも雇うすべての事業主の法的義務になります。事業規模による猶予は一切ありません。そして介護事業所は、利用者やその家族と日常的に深く関わるという業務の性質上、カスハラの被害が最も深刻になりやすい業種の一つです。
つまりこの義務化は、介護事業所にとって「他人事」ではなく、むしろ正面から向き合うべき課題です。
本記事は、介護事業所におけるカスハラ対策を全4回で解説するシリーズの第1回です。今回は、何がどのように義務化されるのかという全体像と、対策を怠った場合に事業所が負うことになる経営リスクを整理します。「何がカスハラに当たるのか」という線引きや、悪質な利用者・家族への具体的な対応、就業規則の整備といった各論は、第2回以降で順を追って扱います。
まずは、事務・労務のご担当者に「これは準備が必要だ」と判断していただくための土台を共有します。


2026年10月、介護事業所も「例外なく」義務化される
根拠法と施行日
カスハラ対策の義務化を定めたのは、2025年6月に公布された改正労働施策総合推進法です。この法律はもともと、パワーハラスメント防止のための措置を事業主に義務づけていたものでした。
今回の改正によって、顧客等からの著しい迷惑行為。いわゆるカスハラへの対応が、新たに事業主の義務として加えられました。施行日は2026年10月1日です。
パワハラ防止がそうであったように、カスハラ対策もまた「やったほうがよい取り組み」から「やらなければならない義務」へと位置づけが変わる、という理解が出発点になります。
中小・小規模・個人事業主にも猶予はない
ここで特に注意していただきたいのは、この義務に事業規模による猶予措置が設けられていないことです。
法改正ではしばしば、「まず大企業に適用し、中小企業は数年遅れて適用する」という経過措置が置かれます。しかし今回のカスハラ対策にそうした猶予はありません。数名のヘルパーで運営する訪問介護事業所であっても、管理者が一人で切り盛りする小規模なデイサービスであっても、施行日と同時に、大企業とまったく同じ水準の義務を負います。
「うちは小さいから当面は関係ない」という前提は、残念ながら成り立ちません。規模の大小にかかわらず、2026年10月1日までに体制を整えておく必要があります。
なぜ今、法律になったのか
そもそも、なぜこのタイミングで法律になったのでしょうか。背景を押さえておくと、義務化の重みが理解しやすくなります。
これまでもカスハラ対策は「望ましい取り組み」として推奨されてはいました。介護分野に限っても、厚生労働省が現場向けのハラスメント対策マニュアルを整備しており、相談体制づくりや方針の明確化が呼びかけられてきました。しかし、それらはあくまで努力目標であり、対応するかどうかは各事業所の判断に委ねられていたのが実情です。
この「望ましい」が「義務」へと格上げされた背景には、二つの流れがあります。一つは、深刻化する人手不足のなかで、ハラスメントによる離職を放置できないという社会的な危機感です。もう一つは、国に先行して自治体が動き出していたことです。たとえば東京都では、全国に先駆けてカスタマー・ハラスメント防止条例が成立・施行されており、こうした地域の動きが、国全体での法制化を後押しする形になりました。
努力目標として見過ごされがちだったカスハラ対策が、いよいよ全事業主に求められる法的義務として明確に線引きされたことになります。
そもそもカスハラとは何か——介護現場での「顧客等」の広さ
義務化に備えるには、まず「何がカスハラなのか」を正しく理解しておく必要があります。
ここを曖昧にしたまま対策を進めると、対応すべき範囲を見誤ってしまいます。介護現場では特に、対象となる相手の範囲と場所の広さに注意が必要です。
カスハラの3つの要素
法律上、カスハラは次の3つの要素をすべて満たす言動として定義されています。
ひとつめは、顧客等による言動であること。
ふたつめは、その言動が、業務の性質などに照らして社会通念上許容される範囲を超えていること。
みっつめは、それによって労働者の就業環境が害されることです。
裏を返せば、この3つのいずれかを欠けばカスハラには当たりません。たとえば、社会通念上許容される範囲の要望であれば、たとえ言い方が厳しくても、ただちにカスハラとされるわけではありません。この線引きは実務上もっとも悩ましいところですが、本シリーズ第2回でじっくり扱います。ここではまず、「相手」と「場所」がどこまで含まれるのかを押さえておきましょう。
「顧客等」には利用者の家族も周辺住民も含まれる
カスハラの行為者となる「顧客等」の範囲は、想像以上に広く設定されています。
介護事業所に当てはめると、直接の契約者である利用者本人はもちろん、その家族も含まれます。さらに、同居の知人や近くに住む親族、施設の周辺住民、出入りの取引業者なども対象に含まれ得ます。
これは介護現場にとって見過ごせないポイントです。実際の現場では、利用者本人よりもむしろ家族からの過度な要求やクレームに職員が疲弊しているケースが少なくありません。「家族はお客様だから対象外」という整理は成り立たず、家族からの著しい迷惑行為もカスハラとして対応の対象になります。
「職場」は事業所の外にも及ぶ
カスハラは「職場において行われる」言動が対象ですが、この「職場」も、事業所の建物の中だけを指すわけではありません。
訪問介護で職員が出向く利用者の自宅、送迎中の車内、さらには電話越しのやり取りや、SNS・インターネット上での誹謗中傷まで、業務に関連して職員が言動を受ける場面は広く「職場」に含まれます。
訪問系のサービスでは、職員が一人で利用者宅という密室に入る場面が多く、被害が表に出にくいという構造的な事情があります。「事業所の外で起きたことだから」と切り離して考えるのではなく、職員が業務として向き合うすべての場面が対策の射程に入る、という前提に立つ必要があります。
事業主が講ずべき措置の4本柱
では、事業主は具体的に何をすればよいのでしょうか。義務の中身は、厚生労働省の指針によって大きく4つの柱に整理されています。ここでは全体像を押さえ、それぞれを実際にどう整備するかという具体的な手順は、本シリーズ第4回で詳しく扱います。まずは「やるべきことは大きく4つある」という骨格をつかんでください。
① 方針の明確化と周知
ひとつめは、事業所としての方針を明確にし、周知することです。
「カスハラには毅然と対応し、職員を守る」というトップの基本方針を定め、就業規則などを通じて全職員に伝えます。あわせて、この方針を利用者やその家族にも事前に知らせておくこと(施設内の掲示やウェブサイトでの明示など)が、被害の予防に効果的だとされています。
② 相談体制の整備
ふたつめは、相談窓口を設け、職員に周知することです。
ここで重要なのは、「明らかにカスハラだ」という事案だけでなく、「これはカスハラなのか判断が難しい」という微妙なケースも広く受け付ける体制にすることです。相談担当者が現場責任者などの関係部門と連携できる仕組みやマニュアルを整え、担当者への研修も行う必要があります。
③ 事後の迅速・適切な対応
みっつめは、相談が寄せられた際に、迅速かつ適切に対応することです。
まず事実関係を正確に確認し、被害を受けた職員への配慮(行為者との引き離し、配置転換、メンタルヘルスケアなど)を行います。あわせて、行為者に対しても、あらかじめ定めた方針(警告、出入り禁止、警察への通報など)に基づいて対応します。
④ プライバシー保護と不利益取扱いの禁止
よっつめは、相談者や関係者のプライバシーを守ること、そして相談したことや事実確認に協力したことを理由に、解雇や降格などの不利益な取扱いをしてはならない、という点です。職員が安心して相談できる環境を整えること自体が、義務の一部に含まれています。
「介護だから」という例外はない
最後に、強調しておきたいことがあります。この指針には、「医療・介護・福祉のような対人サービス業は、カスハラ対応を緩和してよい」といった特例は一切ありません。
介護はホスピタリティや利用者本位の姿勢が重んじられる仕事です。だからこそ「お客様(利用者)には我慢して当然」という空気が生まれやすいのですが、法律はそれを許しません。一般企業とまったく同じ水準で職員を守る措置が、介護事業所にも求められます。
なぜ介護現場のカスハラは特に深刻なのか
カスハラはどの業種でも起こり得ますが、介護現場はとりわけ被害が深刻になりやすい職場です。
義務化が「他人事ではない」と申し上げてきた理由を、ここではデータと現場の構造から具体的に見ていきます。
多くの職員がすでに経験している
まず押さえておきたいのは、介護現場のカスハラが「めったに起きない例外」ではなく、すでに日常的に起きている問題だということです。各種の調査では、介護に関わる職員のうち相当数——約7割にのぼるという結果も報告されています——が、利用者やその家族などから何らかのハラスメントを受けた経験があるとされています。
つまり、「うちの事業所では起きていない」のではなく、「表に出ていないだけ」という可能性を、まず疑う必要があります。
三つの類型と、介護現場での現れ方
介護現場のカスハラは、大きく三つの類型に整理できます。
ひとつめは身体的暴力です。
たとえば、訪問の到着が少し遅れたことに腹を立てて物を投げつける、介助の最中に職員の腕をつねる、髪を引っ張る、噛みつく、といった行為が典型です。
ふたつめは精神的暴力です。
職員の容姿や人格を否定する暴言を繰り返す、事故対応などを口実に長時間にわたって居座り責任を追及する、土下座を強要する、コールを執拗に鳴らして罵倒する、といった形で現れます。利用者本人だけでなく、家族がこれに同調して圧力を強めるケースも見られます。
みっつめはセクシュアルハラスメントです。
入浴や排泄の介助の場面で性的な言動を向けられる、身体に触れられる、執拗に交際を迫られる、といった被害が挙げられます。
これらはいずれも、介護という仕事に「つきもの」として我慢されてきた面がありますが、本来は職員が耐えるべきものではありません。
サービス類型でリスクの形が変わる
注意したいのは、提供するサービスの形態によって、起こりやすいカスハラの種類が変わることです。
入所施設や通所介護(デイサービス)では、複数の職員や他の利用者の目があるため、面前で大声で怒鳴る、長時間のクレームで業務を妨げる、といった精神的な攻撃が目立ちやすい傾向があります。
これに対し、訪問介護や訪問看護では、利用者の自宅という私的な空間で、職員が一人で向き合う場面が多くなります。この「密室性」ゆえに、身体的暴力やセクハラが表に出にくく、エスカレートしやすいという構造的なリスクを抱えています。リスクが予見される利用者には、二人体制での訪問を基本にするなど、密室状態をつくらない組織的な工夫が重要になります。
放置は「離職の連鎖」を招く
そして、カスハラを放置したときに事業所が被る最大の打撃が、人材の流出です。
ハラスメントは職員のメンタルヘルスを悪化させ、燃え尽きを招き、休職や退職につながります。人が辞めれば、残った職員の負担が増え、ケアの質が下がり、それがまた新たなクレームを生む。
こうした「離職の連鎖」に陥ると、最終的には事業の継続そのものが危うくなります。慢性的な人手不足に悩む介護業界にとって、これは経営の根幹に関わる問題です。
放置は経営リスク——「我慢させる」ことのコスト
ここまで読んで、「対策にも手間とお金がかかる。職員に我慢してもらうほうが安上がりでは」と感じた方がいるかもしれません。
しかし、それは逆です。
カスハラを放置して職員に我慢させる選択は、事業所にとって最も高くつく判断になり得ます。義務違反そのものに刑事罰はありませんが、放置がもたらすリスクは、罰則とは別のところで現実の損失となって返ってきます。代表的な3つを挙げます。
安全配慮義務違反による損害賠償
事業主は、職員が安全に働けるよう配慮する「安全配慮義務」を負っています(労働契約法第5条)。これはカスハラに対しても及びます。
利用者や家族からの暴言・暴力を「介護の仕事だから仕方ない」と放置し、その結果、職員が精神疾患を発症したり負傷したりした場合、事業主は安全配慮義務に違反したとして、民事上の損害賠償責任を問われ得ます。安全配慮義務違反を理由に事業者の賠償責任が認められた裁判例は業種を問わず存在しており、介護現場もこの枠組みの外にあるわけではありません。
実際、厚生労働省の「介護現場におけるハラスメント対策マニュアル」も、事業者は労働契約法上の安全配慮義務があることから、その責務として利用者・家族等からのハラスメントに対応する必要があると明記しています。
さらに、認知症など病気や障害に起因する暴言・暴力であっても、職員の安全に配慮する必要があることに変わりはない、とされています。カスハラの放置は、職員個人の問題にとどまらず、事業所の賠償リスクに直結する経営課題なのです。
労災認定の「強」に直結する
次に、労災です。2023年に「心理的負荷による精神障害の労災認定基準」が改正され、業務上のストレス要因として「顧客や施設利用者などからの著しい迷惑行為(カスハラ)」が明確に位置づけられました。
ここで事務・労務担当者に特に知っておいていただきたいのが、心理的負荷が重い(労災と認定されやすい)と評価される要件です。治療を要する暴行を受けた場合や、人格を否定するような言動を執拗に受け続けた場合はもちろんですが、それだけではありません。迷惑行為そのものはそこまで重くなくても、職員が会社に相談したにもかかわらず、会社が適切に対応せず状況が改善しなかった場合には、負荷が重いと評価されやすくなります。
つまり、相談窓口を設けず、相談を受けても動かない。という対応の欠如そのものが、職員が精神疾患に陥った際に労災認定のハードルを下げ、事業主の責任を重くする決定的な要素になり得るということです。第3章で見た「相談体制の整備」と「迅速な事後対応」が義務とされているのは、まさにこのリスクと表裏一体です。
企業名公表がもたらす介護特有の連鎖
最後に、行政による履行確保措置です。措置義務を怠った事業主に対しては、報告の求めや助言から始まり、指導、勧告、そして最終的には企業名の公表へと、段階的な対応がとられ得ます。
この「企業名の公表」は、介護事業所にとって他業種以上に重い意味を持ちます。
社会的信用が損なわれるだけでなく、指定権者である自治体の目に留まり、介護保険法に基づく監査や行政処分のきっかけになりかねません。さらに、ただでさえ採用が難しい業界で「職員を守らない事業所」という評判が立てば、人材確保は一段と困難になります。罰則がないからといって軽く見てよい話ではなく、実質的には罰則以上のダメージにつながり得るのです。
まとめ——カスハラ対策で押さえるべきこと
第1回では、義務化の全体像と、対策を怠った場合の経営リスクを見てきました。最後に、要点を3つに整理します。
第1回の3つのポイント
ひとつめ。2026年10月1日から、カスハラ対策はすべての事業主の法的義務になります。事業規模による猶予はなく、数名で運営する小規模な事業所も対象です。「接客業の話」でも「大企業の話」でもなく、介護事業所が正面から備えるべき課題です。
ふたつめ。介護現場は、カスハラの被害が特に深刻な職場です。利用者本人だけでなく家族も「顧客等」に含まれ、訪問先や送迎車内、電話・SNSまでが対象になります。職員の多くがすでに被害を経験しており、放置は「離職の連鎖」を通じて事業の継続そのものを脅かします。
みっつめ。カスハラの放置は、職員に我慢を強いる問題にとどまらず、事業所の「経営リスク」に直結します。安全配慮義務違反による損害賠償、労災認定の心理的負荷「強」への該当、そして企業名公表から監査・採用難へと至る連鎖は、いずれも実害として返ってきます。
次回予告:何が「カスハラ」で、何がそうでないのか
ここまでで「対策が必要だ」とご理解いただけたとして、現場で最初にぶつかる壁は、「そもそも、どこからがカスハラなのか」という線引きです。
特に介護現場では、認知症の症状(BPSD)に起因する言動や、障害のある方からの正当な要求と、カスハラとをどう切り分けるかが、極めて悩ましい問題になります。次回・第2回では、この「境界線の見極め」を、厚生労働省の整理を踏まえて具体的に解説します。


当事務所のサポートについて
当事務所は、医業・社会福祉に特化した社会保険労務士事務所として、就業規則やカスハラ対応に関する規程の整備、相談体制づくりなど、義務化に向けた準備のお手伝いができます。「何から手をつければよいか分からない」という段階でも構いません。ご相談ください。
